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戦前の日本製タイ海軍艦艇の後日談

前9月号においては日本で建造し、昭和12~13年にタイ海軍へ引き渡された海軍艦艇14隻のうち、潜水艦4隻の写真を紹介した。今回は、さらに海防艦メクロン号の写真と、これら日本製のタイ海軍艦艇にまつわる後日談を述べることにする。

なお今回は、目黒のあるタイ王国大使館付海軍武官室に海軍駐在武官サンパン海軍大佐(Captain sampan Soontawnkrut)をお訪ねし、色々とお話しを伺った。大変丁寧に応対頂き、本稿を纏めることが出来た。紙面を借り御礼を申し上げる。


海防艦メクロン号(写真下)は、同型にターチン号があり、いずれも昭和12年にタイ海軍に引き渡されている。

『昭和造船史』によると、基準排水量1,400T、水上速力17kt、備砲4門、乗組員155名である。


海防艦メクロン号のモデルシップ

本艦型は、警備の任務とともに練習艦に適するように砲(4)、機銃(1)、発射管(1)、爆雷(20)、水上飛行機(1)を搭載し、併せて練習員の居住区を設けた万能艦で、浦賀船渠(ドック)が建造し三井物産経由で納入されている。

魚雷発射管が明瞭に写っている左舷側の写真とともに、水上飛行機を吊り下げた状況がわかるモデルシップの写真を掲示した。



メクロン号博物館のパンフレット

海防艦メクロン号は、後述する1941年1月17日のフランス東洋艦隊(仏印軍)とのコーチャン島沖海戦に直接配備されてはいなかったようだが、第2次大戦中は、サタヒップ港を母港として、サタヒップ――リアム(カンボジア領)及びサタヒップ――プラチャプ・キリカンの間の哨戒行動によるタイ湾の防衛に従事した。戦後は、前述の通り小型ながらも多機能性を活かし、タイ海軍の練習艦として士官候補生の教育に使われた。

サンパン大佐も乗り組んだ経験がある由である。その後、1996年退役となった。

軍艦としては約60年という大変に長い期間現役であり、多くの海軍軍人を育てた艦でもあるので、現在はサムットプラカーンの海軍要塞の中で陸上に固定され博物館となり、その多彩な機能が身近に見られるよう公開されている。(所在地は地図をご参照 )


砲艦トンブリ号の運命

ところで、4隻の潜水艦のその後を語る前に、話しの順序として同時期に日本で建造されたタイ海軍の主力艦である砲艦アユチア号(2,265t) 、砲艦トンブリ号(2,265t)の歴史について述べておきたい。

此の2砲艦は1941年のタイ仏印国境紛争 におけるコーチャン島沖海戦でフランス東洋艦隊の旗艦軽巡洋艦ラモット・ピケ(7,249t)及び砲艦2隻と交戦し、砲艦トンブリ号は大破し擱座した(後に離礁させたが、曳航途中に沈没)。

同じくタイの水雷艇2隻(これはイタリア製)も沈没するという結果になった。砲艦アユチア号も被弾し、大破に近い状態で戦線を離脱した(後に建造先、川崎造船の手で修理現役復帰した)。

此の海戦は、仏印軍の航空機による索敵がタイ海軍より先行し、払暁タイ艦隊を急襲したため仏印軍の勝利となったものである 。

タイ艦隊はコーチャン島泊地及びサタヒップ軍港に2艦隊集結し、シャム湾の制海権確保のためフランス東洋艦隊に決戦を挑む体制を敷いていた矢先の出来事で、話題の潜水艦もサタヒップ軍港にて待機中であったが出番は無かった。

沈没した砲艦トンブリ号の進水は、1938年1月であるから、その間僅か3年であった。その後日本の業者により引き揚げに成功し、戦後も長らく繋留状態であったが、就役困難とされ、解体された。

その際に砲塔と艦橋構造だけが外され、現在海軍士官学校の校庭の一角に飾られている。いきさつを記したプレートは特に無いそうである。


砲艦アユチア号の運命

次に砲艦アユチア号であるが、此の砲艦はその後海軍のクーデタの中でタイ国空軍により撃沈されるという数奇な運命を辿った。

1951年当時のピブーン首相とその配下のピン、パオ両将軍と海軍との複雑な関係は省略する が、1951年6月、米国より贈呈されたサルベージ艦マンハッタン号の贈呈式の席上、当時のピブーン首相は海軍により拘束され砲艦アユチア号に人質として監禁された。

ところが、海軍のクーデタに対し陸軍が反撃し、ピン、パオ両将軍は配下の空軍を使って、砲艦アユチア号を爆撃したため沈没し、ピブーン首相はチャオパヤ川を泳いで辛くも脱出するという事件がおき、クーデタは陸軍により鎮圧された。

この事件を境にタイ海軍の勢力は急速に低下することとなった。なお、その後、砲艦アユチア号は引き揚げられたが、解体された。この「トンブリ級」砲艦は小型ではあったが、20センチ連装砲2基を擁し攻撃力の大きい砲艦として、日本艦艇史上言及されることが多いという。

しかも現在タイの地に保存されていることは不思議な因縁である。

潜水艦のその後

ところで最後に潜水艦であるが、いずれも1951年に進水後14年で退役している。最大の理由は、潜水艦の命とも言うべき舶用電池を始めとして、様々な部品が日本の敗戦で入手困難になったためとされている。

しかしその背景には、上述の海軍による反ピブーンクーデタの失敗があり陸軍による海軍の弱体化政策も影響しているようである。此の潜水艦の内1号艦マチャーヌの艦橋と機銃部分は解体の際に外され、これも前述の海軍士官学校の反対側にある、海軍博物館に飾られている(写真はインターネットから転載した)。

練習艦メクロン号はともかくとして、両砲艦、4隻の潜水艦ともいかにもタイ国らしい歴史の舞台に登場し、不思議な運命を辿った。戦前に日本が建造した軍艦は、現在日本では全く見ることが出来ないが、こうしてその一部をタイ国で見ることが出来ることは、「艦艇ファン」には良く知られたことのようである。

なお、現在のタイ海軍は、小型航空母艦「チャクリ・ナルエベト」、フリゲート艦10隻、のほかコルベット艦などの艦船を擁する、知る人ぞ知る東南アジア有数の海軍国である。日本とは、士官候補生の留学受け入れなど大変親密な関係にある。今回訪問したサンパン大佐も日本の留学経験を有し、大変流暢な日本語で応対して頂いた。


潜水艦の艦橋写真

サンパン海軍大佐

メクロン博物館周辺の地図

潜水艦進水式の絵葉書
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