日本タイ協会が保存している戦前の貴重な写真集の中から、今回は4隻の潜水艦の写真を紹介する。
この4隻は同型でいずれも三菱重工業神戸造船所で建造されたもので、昭和11年中に起工し、昭和12~13年にかけタイ海軍に完成し引き渡された。4枚の写真のうち、艦橋、備砲、ハッチの形状が明瞭に写されている4号艦の写真を大きく紹介し、念のため残り3艦も掲出した。艦橋の番号に注目願いたい。1号艦マッチャーヌ、2号艦ウイルン、3号艦シンサムッタ、4号艦プライチュンポーン、である。
『昭和造船史』 によるとこの潜水艦の基準排水量328T、水上速力15.7kt、水中速力8.1kt、魚雷45cm×8、備砲2、乗組員29名である。旧日本海軍では、小型の「波号程度であるが、単殻潜水艦として良くまとまった設計であった」と評されている。
暹羅協会会報11号(昭和13年6月)にも「暹羅国海軍潜水艦受渡式」の記事が見られ、その折の写真が残ったのであろう。なお、乗員は神戸で訓練を受け自力で本国に回航した。
4号艦 プライチェンポーン
タイの海軍と日本との関係は、1905(明治38)年に11名の留学生を受け入れたことに始まる。この11人は、これまでデンマーク人に依存していたタイ国海軍が自前で将校を養成するため、「国外に官費留学させた1期生であった。彼らは東京で攻玉社に2年半学び、海軍兵学校への進学を希望したが、何かの手違いでかなわなかった。
1号艦 マッチャーヌ
2号艦 ウイルン
3号艦 シンサムッタ
結局、タイ政府の注文した4隻の水雷艇と2隻の駆逐艦を建造中の、神戸の川崎造船で技師見習いとして研修を受け、最後に軍艦津軽で日本の海軍機関少尉候補生とともに3ヶ月間の実務教習教程を終了することが出来た 」のである。
その後のタイの海軍と日本との 関係も、微妙なものがあり、当時の状況に興味をもたれた方は、早大大学院村嶋英治教授の『ピブーン』をおすすめする。ところが昭和に入ると、その関係も変わってくる。
内訳は、上記の潜水艦4隻、砲艦2隻、海防艦2隻、哨戒艦3隻、輸送艦・給油艦3隻である。これらの艦艇の写真が少なからず弊協会に残されている。
こうした、艦艇のうち、砲艦アユチア、砲艦トンブリはこの後数奇な運命を辿ることになるが、海防艦メクロンはサムットプラカーンで今なお博物館として残っている。予定の紙数も尽きたので、今回の潜水艦のその後を含め、日本製軍艦の活躍などは次号に続けたい。
(社)日本造船学会編集,『昭和造船史』502-504頁、原書房、昭和52年。
村嶋英治、『ピブーン』11頁、岩波書店、1996年。